足りなかった小銭

その昔、ある学者と妻が男の子を授かりました。その男の子は母親の胎内にいる時に、学者である父親の間違いを指摘したため父親に呪いをかけられてしまいます、そして男の子は手足がねじれ曲がった状態で生まれてきました。その子の名前は八つの箇所がねじ曲がったという意味で「アシュタバクラ」と名づけられました。

才能豊かに成長したアシュタバクラは、王様の相談役として城に仕えました。王様は困った時にアシュタバクラに相談をします、するとアシュタバクラは決まってこう答えます「王様、心配は要りません、それは王様にとって最高の出来事です」。


ある日、王様が手に怪我をしてしまいました、王様はその事をアシュタバクラに相談するといつもの通り「心配要りません、それは王様にとって最高の出来事です」と答えました。それを聞いた王様は怪我をした事を最高とは何事だ!!と怒りアシュタバクラを牢屋に入れてしまいました。


ある日、王様は狩りに出かけました。狩りの途中山奥で、原住民にこれから行う儀式の生贄として捕まってしまいました。儀式が始まろうとした時、原住民は王様が手に怪我をしている事に気が付きました。怪我をしている者は穢れているので生贄には出来ないと王様は釈放をされました。王様は気付きました、アシュタバクラの言ったとおり手に怪我を負った事は最高の出来事だった事に、そして王様はアシュタバクラが言った言葉の意味をようやく理解出来たのでした。


王様は急いで城に戻り、アシュタバクラに謝りました。するとアシュタバクラは答えました「王様、心配は要りません、それは私にとって最高の出来事です」。

「もしも王様が私を牢屋に入れていなければ、私も一緒に狩りに出かけ怪我をしていない私が生贄になっていた事でしょう。ですから私にとって牢屋に閉じ込められたのは最高の出来事だったのです。」


この話は、昔からインドに伝わる昔話です。

私達の多くは、自分の望む事が目の前で起これば最高、そして望まないことが起これば最悪と区別をしてしまいがちですが、(今差し出されている、どんな最悪な出来事もその先起こるであろう最高の出来事に繋がっている可能性があります。)

アシュタバクラの言葉の通り、今現在望んでいない出来事が差し出されたとしても、その出来事が時間が経つと最高の出来事になる可能性に続いているのならば、私達にとって最高の出来事しか起こらないのかもしれません。

私は毎年家族で大田区花火大会を観に行くのですが、川崎の方から見るとそんなに混雑していなくて秘密にしたいくらいの穴場で、本当におススメの花火大会です。去年の夏は、妻の友人も来るとの事で、最前列の見晴らしの良い席を確保しようと場所取りに行く事にしました。家を出る時、家族みんなが出払っており、その当時犬を飼ったばかりで、家に犬ひとりぼっちは可哀想だと、夏の暑い時間帯でしたが車に乗せ、家を出ました。

近くのコインパーキングに車を止め、早めに来た甲斐もあっていい席を確保出来ました。場所取りの任務を終え、綺麗な花火を思う存分堪能できると心躍らせていましたが、真夏の炎天下に犬を連れ出してしまい、愛犬は相当暑がっているので、良い場所が取れた嬉しさで足取り軽やかに、ですが急いでパーキングに戻りました。料金メーターを見ると200円と表示されているので、財布を見ると1万円札しかなく小銭も持ち合わせていませんでした。大きなお札や1円玉は受け付けないメーターなので、両替をしなければいけませんが、回りには両替できそうなお店は見当たりません。夏の炎天下、愛犬のパグはのどが渇いたから水をおくれと息遣いが激しく訴えてきます。どうにかしなければと、1円玉と10円玉でなんとかかき集めた小銭を通行人の方に事情を話して両替してもらいました。これで家に帰れると、料金を払おうとした瞬間、料金メーターがあがってしまいました。「最悪だ!あと数秒早かったら」と私は、目の前に差し出されたこの状況にショックでしばらくの間、放心状態になってしまいました...。すると愛犬はまるで「もう暑さ限界、頼むから水を!!!」という目で鳴き始めました。私は今にも暑さで倒れてしまいそうな愛犬を抱え走ってコンビニを見つけました。無事にミネラルウォーターを入手でき、愛犬の命を繋ぐ事が出来ました。おかげで両替も出来たので、パーキングの料金を払い、帰路につきました。


しばらく車を走らせていると渋滞に巻き込まれました。しばらく経っても車は進まず、渋滞の列にはまってしまった為後戻りもできません。その時に隣でスヤスヤと眠る愛犬の姿を見て気付かされました。パーキングで料金を払えなかった事が最高の出来事だったと...。もしもあの時、コンビニで水を買わずに帰っていたら、愛犬はのどがカラカラの状態で渋滞にはまり、車で苦しい思いをして私も気が気ではなかったでしょう。その夜は家族と友人達とこの話で盛り上がりながら、花火を楽しみました。一見最悪と思えるような出来事も、最高の出来事の始まりなんだなと最高の花火と共に、味わう事が出来ました。


自分の望まない事が差し出された時、表面上だけを見て歩みを止めてしまう前に、心の中のアシュタバクラに聞いてみてください。

「心配はいりません。それはあなたにとって最高の出来事です。」


全てが最高の瞬間である事をいつでも忘れず、最高の宝物が差し出されている事に気づける自分で居たいものです。

秋葉原の街が開いた世界

ヨガの根本経典「バガバットギータ」には古代インドの賢者達の生きる智慧が記されていますが、その一節にこう記されています。

「自ら自己を高めるべきである、自己を沈めてはならぬ。自己こそ自己の友であり自己こそ自己の敵である。」
自己を高めるとは、自己を成長させると言い換える事が出来るでしょう。ヨガでは経験を積み重ねていく事で、自分を成長させていく事が出来ます。 子供の頃、私達はほぼ全ての出来事が初めての体験でした、ですので小さな事で動揺し不安になってしまいました。年を重ね様々な経験を積み、成長をする事で、小さな事では動揺しなくなるのです。私達は日々の生活の中で無意識のうちに自分の慣れ親しんだ事ばかり選択しがちですが、常に経験を積む事によって私達の許容範囲は広がってゆき心の波立ちも減っていくのです。

数年前のある日、友人から余ったAKB48のライブチケットを頂きました。当時AKBの名前は聞いたことがありましたがあまり詳しく知らず、ただ人気のアイドルグループぐらいの認識でした。妻に聞けばAKB48のライブチケットは入手困難らしく即日完売になってしまうほどの人気だそうで夫婦で行く事に決めました。私自身ライブコンサート自体が初めてだったのでネットで色々と調べたら、どうやらファンの方々はペンライトでアイドルを応援するらしいのです。私達はペンライトを持っていないので買いに行く事に・・・どうせだったら本物のペンライトが欲しかったので秋葉原にある公式ショップへ買いに行こうと決めました。

生まれて一度もきちんと行ったことがない秋葉原は当時の私にとってオタクの聖地で未知の世界。ワクワクどきどき少し不安も感じつつ1人で新しい街に飛び込みました。秋葉原の駅前に出てみると町はAKB48一色に染まっていて公道にはど派手なAKBの街宣車がば何台も走っており、至る所に大きなポスターが貼られ、アイドルのファンと思われるスーツを着た紳士は自分で用意したラジカセの曲に合わせて激しく踊っていました。道中、噂には聞いていたメイドの女性にも遭遇し困惑しました。

まるで異国に来たような感覚を味わいながら無事に公式ショップにたどり着き店内に入ると、人でごった返していました。よく見るとアイドルの生写真を交換こしているではありませんか。店内の男性に「ペンライトはどこで買えるのか?」と聞くと「君はチーム何を応援しているの?」と聞かれたじたじ・・AKB48はチーム分けされていて、そのチームをファンは応援するのだと、親切にその男性は私に説明してくれました。

無事にペンライトを手に入れ後日、夫婦で東京ドームのコンサートに行ってきました。何万人という人達の熱気と興奮に包まれた会場は今か今かとライブの始まりをまちます、派手な合図とともにライブがスタートすると観客のボルテージも一気に最高潮に会場内全員が歌って踊って一つになります。コンサート初体験だった私は圧倒されっぱなし、でも気付けば私達夫婦も歌って踊っていました(笑) 。会場の一体感に感動を感じながらあっという間に時間も過ぎてしまいました。ライブの帰りはくたくたでした。

結果、秋葉原の街に行きオタクの方の親切に触れた事で、秋葉原の街が身近になり、オタク文化にも触れる事が出来ました。また今ではコンサートが好きになり、国内外の様々なアーティストのコンサートにも行くようになりました。

私達の目の前には日々様々な出来事が差し出されます、時には自分が苦手な事や一見躊躇してしまいそうな事も・・・自分の得意な事ばかりを選り好みしていると中々新しい経験を積む事は出来ませんが、新しい事や苦手な事が差し出されたとき、そこで歩みを止めるのではなく少し勇気を出し一歩足を踏み込んでみる事でそこから新しい世界が広がっていくのかもしれません。

幸せの方程式

2000年前に成立されたとされるヨーガの根本経典ヨーガスートラ。
その中に、このような教えが記されています。
「知足(サントーシャ)によって無上の喜びが得られる。」
ここに登場する「知足」とは、私達がすでに足りている事を知っていきましょう、という教えです。

私達は、すでに沢山の宝物を与えられた人生を送っています。
普段当たり前のように行っている、目で綺麗な景色を見る事や大切な人と会話をする事、そして自分の足で行きたい場所へ歩いていける事。
普段当たり前のように行っている事も、それが出来ない人にすれば10億円払ってでも手に入れたい、奇跡のような宝物なのです。

ところが私達の多くは他の誰かが自分の持っていない物を持っていると、急に自分に与えられている沢山の宝物に気付けなくなってしまうのではないでしょうか?
そして目の前の世界に対し不満な気持ちが出てきてしまいます。

どんな時でも、無い物に目を向けるのではなく、与えられた物に目を向けていく事で私達はより満ち足りた人生を送る事が出来るのではないでしょうか?

ヨーガを始める以前の私は、人一倍体も硬く体の不調に苦しんでいました。
ヨガインストラクターをしている妻の勧めもありヨーガを始めたのですが、体が硬い私はレッスンで皆に付いていくのが精一杯でした。
皆のようにポーズを取る事が出来ず「何で自分の身体はこんなに硬いのだ!!」とレッスンに参加する度に悩んでいました。
私は、はやく体を変えたいと毎日練習をするのですがなかなか上達しません。
皆のように、どんなアーサナでも取れるようになりたいと気持ちは焦るばかりでした。

私は普段、靴の販売員の仕事をしています。その日はお店に来店されるお客様も
まばらで仕事中に考え事をしてしまっていました。
「どうしたら皆のように体を柔らかくする事が出来るのか?」などとクヨクヨ悩んでしまってなかなか仕事に集中出来ませんでした。

するとお母さんに車椅子を押してもらう女の子が靴を買いに来ました。
私が接客に付いたのですが、その女の子は凄く楽しそうに「今日はお母さんと一緒に映画を見てきたの」と私に話してくれました。
その女の子の無邪気な笑顔はとても子供らしく、生き生きとしていて、心の底から人生を楽しんでいるように見えました。
なぜ車椅子になってしまったのか理由は分かりませんが、自分が車椅子である事に微塵も不満を感じさせない女の子の楽しそうな笑顔に私は「ハッ!」と我に返りました。
私の半分も生きていない女の子は、自分に与えられている物にしっかり目を向けて人生を思う存分楽しんでいるのに、いったい自分は何を悩んでいるのだろうか・・・。

自分には健康な身体もあり、帰る家もある。自分の脚で歩いて好きな所へ行き大好きなヨーガも出来ている、それなのに小さな事で悩んでいる自分がそこにいました。

それからは自分に与えられている沢山の宝物に気付く事が出来ました。
それまでの悩みは消え去り心からヨーガも楽しむ事が出来るようになりました。
なにより気にも止めなかった日常生活の中で、電車から観る景色や当たり前のように過ごしていた友人や家族と過ごす時間、全てがプライスレスな出来事へと変わっていきました。

私達の多くは、与えられている最高の宝物になかなか気付く事が出来ず、いつまでも自分の持っていない物にばかり目が行ってしまいがち。
そして、この世界に対して「自分はまだ足りていない!」と不満を抱いてしまっているのではないでしょうか?
与えられた宝物を失ってしまってから気付くのではなく、普段当たり前のように過ごしている日常が奇跡の連続だという事に気付いて行く事で、私達はより満ち足りた人生を送れるのではないでしょうか。

私達の人生をより幸せにする為のヒントが知足(サントーシャ)の教えに隠されています。
より多くの人生の宝物に気付き、無常の喜びが得られますように。

ロマンチックは突然に

ヨガの根本経典「ヨガスートラ」の中にこんな一説があります。

「カルマは、善業に起因するものは楽、悪業に起因するものは苦として結実(業報)する。」

"カルマ"とは、一般的に"業(行い)"と訳されます。善い行いをするとよい結果を結ぶ。悪い行いをすると苦しい結果を結ぶ。日本にも"因果応報"という言葉にもあるように、ヨガでは目の前の現実は全て自分の行い(カルマ)の結果であると考えます。現実がいい物であれ、悪い物であれ、自分の投げたボールがそのまま返ってきているのです。目の前の現実は、まるで自分の映し鏡のようです。もしも望んでいる現実が現れないのならば、
ボールの投げ方を変えてみたら目の前に光が差してくるのかもしれません。

昨年、結婚しました。
優しくて包容力のある夫ですが、お付き合いをしている頃からどうしても嫌だなと思う所がありました。

それは、女心をわかってくれないといいますか、全くロマンチックな所がないのです。。。私は映画の中で出てくる、記念日に1本ずつバラが増えていって月日が経つに連れ抱えきれない花束が。。。といったロマンチックな事に子供の頃から憧れていました(笑)

現実を変えるべく、努力を試みました。やり方がわからないと困惑されたので、韓国では恋人に壮大なサプライズをする習慣があるらしいから、調べてみたらと提案をしましたが、待てど暮らせどロマンチックが現れることなく月日は流れて行きました。

昨年のバレンタインが近付いて来た時に『手作りが欲しい』と何気なく意思表示されました。手作りは意外とコストも掛かるし、売り場の方が私も食べるのが楽しみなのにと思いましたが、手作りしました。どうせなら、包装も可愛くロマンチックなものにしようと手紙付きで渡しました。とても喜んでいたので、作った甲斐がありました。

毎年クリスマスも私が着て欲しいと思う洋服をあげていましたが、バレンタインの件があったので彼が本当に欲しいものをリサーチしてプレゼントしました。

夜景年が明けて今年の1月、藤沢の方に用事があり2人で出かけました。帰りは夜になりましたが、夫が寄り道したい所があるというのです。車を止めたその場所は、鍵を恋人が結ぶので有名な"湘南平"という場所でした。そこには宝石を散りばめたような神奈川の夜景が広がっていました。ですが、冬の真夜中、寒すぎて景色を味わうどころではありません。そこで夫がいきなり「こうやって二人のアルバムが増えていくんだね...」とキザな言葉を!!!私はロマンチックとは程遠い夫の言葉に、嬉しさよりも驚きで口があんぐりと開いてしまいコントみたいです。待ち焦がれていたロマンチックを数年越しに手に入れる事が出来たようですが、寒すぎてその言葉に酔う感じではありませんでした(苦笑)

それから数日、どうして奇跡が起こったのか考えていました。思い当たるのは、ロマンチックのボールと相手が望んでいるボールを投げた事。相手を直接コントロールするのはなかなか上手くいかないけれど、して欲しい事をまずは与えなければ手に入らないのだとカルマの法則を実感する事が出来ました。ロマンチックも夢見るだけではなく現実になるのです!(笑)現実は与えたものに比例する事がわかり、今はワクワクする毎日を過ごしています。

皆さんの目の前には望んでいる世界が広がっているでしょうか?
上手く行かないときにはボールの投げ方を変えてみるだけでいいのです。
素敵なボールを投げて、光輝くワクワクした毎日を送れますように^^

世界に一つだけの花

大乗仏教の経典『阿弥陀経』の中にこんな一節があります。

「青色青光 黄色黄光 赤色赤光 白色白光」

これは、仏様が弟子に極楽浄土のありさまを語る部分で「極楽の池の中に無数の大輪の蓮の花が咲いている。青い色の花には青い光が射し、黄色の花には黄色い光、赤い花には赤い光、白い花には白い光が射す。それらはいずれもすばらしく美しい」 と続きます。

花の色は人間の個性を表しています。青い花が青く輝いて青く見える。当たり前の事のように感じますが、10人いれば顔かたちや性格や才能がみんな異なるのに、人と比べて自分が違うと落ち込んだり、背伸びして疲れてしまったり日本人は特に多いのかもしれません。個性で光るという事は言い換えれば、自分で嫌だなと思っている部分があるかもしれないけれどありのままの自分を肯定し、輝いて生きていく事と言い換える事が出来るのかもしれません。

10数年前、成人式の準備をしようとどんな振袖や髪型にしようか、晴れの日を思い描いておりました。私は小さい頃から、両親の顔色を伺って言いたい事を言えない子でしたので、意を決してピンクの花柄がいいと母に着たいイメージを伝えようとしました。私の先回りで話をしてくる母でしたので、この時も伝える前に「着物はあるから」と言われてしまいました。色を聞くと「水色」との事。後日、タンスから襟の部分だけ見せてもらい、エメラルドともターコイズとも言えない鮮やかな色で、色味は綺麗だからまぁいいかとその日は終わりました。

成人式成人式を目前に控え、初めて振袖の全容を見た時、愕然としました。なんと柄が何も描かれていなかったのです。柄があるのが当たり前と思っていたので肩を落としてしまいました。そして当日は寒さもあるだろうし、ショールを羽織りたいと母に言いました。「あるから任せて!」とみんな着けている白いふわふわが出てくると思ったら、式当日、なんと濃い灰色の若者がしないような物が出てきました。着けないよりか着けた方がいいと、会場に向かいました。会場に着き、周りを見渡してみると柄のない着物なのも、濃い灰色のふわふわを付けているのも私だけで、一人だけみんなと違う事が苦しくて仕方ありませんでした。

品物の良さも、そして祖母から母へ、母から私へ受け継がれる素晴らしさに気づく事も出来ない自分がそこにはいました。式のあと、急いで帰宅し振袖を脱いで打ち上げに出かける時、髪とメイクは成人式仕様のまま服は普段着というちぐはぐなスタイルでしたが、みんなと同じ格好になれた事で妙な安堵感を感じた事を覚えています。

月日が流れ、その時は脱ぎたくて仕方なかった振袖も、今は本当に素晴らしい振袖を着せてもらったなぁと自然と思えるようになりました。無地の振袖だったからこそ、黒地に様々な色で刺繍された帯が引き立ったのだと写真を見ても母に感謝しています。その時、人と違っていて不安でしたが、そのままで素敵に輝いていたんだなぁと、写真を見る度そして成人の日が来る度に思い出します。そして、この経験から自分では人と違って嫌だなと思っている部分が客観的に見てみたら光輝いて見えることもあるのだという事に気づき、人と比べたり背伸びしたりしない自分が今ここにいます。

SMAPが「世界に一つだけの花」で歌ってくれています。私たちは世界に一つだけの花であるという事を。私たちが比較や偏見を捨てて、ありのままの自分で命を輝かせていく。

世界中の皆さんが「オンリーワンの私」で胸を張って自分の輝きを放っていけますように。。。

笑顔の魔法

インド今から二千年ほど前に成立したヨガの根本経典「ヨガ・スートラ」には、私達が平安な生活を送るための智慧が記されています。 その中の一つに"サント―シャ"という教えがあるのはご存知でしょうか?日本語では「知足」と書きます。足りている事を知っていく。 私たちは手にしていなく足りていない事に意識が向きがちですが、 既に自分が持っている事に目を向けていきましょうという教えです。
「知足の結果として、人は無上の喜びを得る。」と経典には記されています。

私にとって2013年は、目まぐるしく状況が変わり、初めての経験も沢山出来た年でした。 5月に生まれて初めて新婚旅行を兼ねてインドへヨガ修行に行く機会も持てました。沢山の動物が公道を歩いていても動じないインドの人や動物と共存する姿を観察したり、のんびりとインドの国を肌で体験してきました。

マハラジャの宮殿を47度の炎天下で散策という体験も出来ました。宮殿内では、夫が優しい言葉をかけてくれても暑いというか、外気が痛すぎて、新婚旅行だというのに素っ気ない対応しか出来ませんでした。

出口についた頃、暑さで朦朧としているところに一人の少年がこちらに近づいて来ました。その5歳位の少年は私達二人に子供らしい笑顔と可愛らしい動きを見せてくれます。インドの子供ははっきりした顔立ちで可愛くて、少年の回りにはキラキラと星が舞っているような雰囲気さえ醸し出していました。ジャニーズJrのようなその少年の笑顔を見て、私は暑さの苦しみを忘れて自然と顔が綻び、幸せな気持ちになりました。

インドは幸せの対価としてチップを払う文化の国でしたので、夫が小銭を出そうとしている瞬間私は見てしまいました。少年の先ほどとは違う獲物をハントするような鋭い眼差しを。。。彼は、笑顔が人を幸せな気分にさせる事を知っていたのです。そしてチップがもらえ生きるための生業になる事も。少年の素敵な笑顔と生きるためのたくましさを目の当たりにして、改めて私たち誰もが無料で作ることのできる笑顔には魔法のような力があるのだという事を思い出したのです。

そんな笑顔の力を使わないと勿体無いと気づいた私は、ならば実践と、炎天下の下でも、夫が話しかけてきたときには意識的に口角をあげてみることにしました。するとそれまでの暑苦しさがどこかへ消えて、気持ちよく夫と接することが出来るようになったのです。おかげで記念写真もとびきりの笑顔で撮れました。私たち人間が持っている笑顔の力を思い出させてくれた少年にはとても感謝しています。

現代社会は色々な意味で生き辛さを感じる場面も多いかもしれません。そんな時こそ、自分が手にしていない外の事ばかりに目を向けるのではなく、私達人間がもともと持っている力に目を向ける事が出来たなら、もっと世界中に笑顔が溢れるのかもしれません。

笑顔は愛される力と結びついています。まずは自分の心の奥底にある笑顔のスイッチを少し押してみませんか? 2014年は、是非とも口角をあげて、至福感に包まれた世界を歩んで行きたいですネ^^

最高の宝物

その昔、インドに王様とその家臣のアシュタバクラという大臣がいました。アシュタバクラは、王様に何かを尋ねられると決まって「心配はいりません。起こることは、全て最高の出来事です。」と答えます。王様は、この言葉を聞くといつも心の安寧を得ることが出来ました。

ある日王様は怪我をしてしまいました。ですがアシュタバクラは「王様心配はいりません。起こる事は最高の出来事です。」といつものように答えました。王様は「怪我して痛い事が最高なはずはない!」と怒ってアシュタバクラを牢屋に入れてしまいました。

その数日後、王様は狩りに出かけ、山奥で原住民に捕まってしまいました。儀式の時の生贄として捕まってしまった王様。火あぶりにする直前に原住民達は王様の怪我に気づきました。「怪我をしてたら傷物で、生贄にならない!」と解放されました。そしてその時に王様は「怪我をした事は最高の出来事だったんだ...」とアシュタバクラの言っていた意味を実感しました。

急いで城に戻り、王様はアシュタバクラに謝りました。するとアシュタバクラはいつものように答えました。「牢屋に入れられていた事は最高の出来事です。もし牢屋に入らなかったら、王様と一緒に狩りに行き、私も生贄となり怪我のない私は燃やされていたでしょう。だから、牢屋に入れて頂いた事が最高の出来事です。」

私たちは自分の望んでる出来事と望んでいない出来事とを、最高・最悪と区別をつけてしまいがちですが、望まない出来事が差し出されたとしても最高の出来事と言う事に気づくことが出来たら、目の前の世界が光り輝いて見えてくるのではないでしょうか。

お祭り中学3年の時に、いじめにあい、地元の学校に転校する事になりました。新しい学校生活を想像し胸を高鳴らせて通い始めましたが、中3になると卒業目前で昔話に花を咲かせる事も多く、運動会がどうだったなど、輪に入れず淋しい思いをした事も度々ありました。学校生活で何より怖かったのが、今までが女子校だったので男の人は勿論、接した事のないジャンルの人もいたり話が上手く出来ませんでした。襟足の長い髪の人もいたり、その人の上履きには「夜露死苦!」とか地図記号のお寺のマークなどが色とりどりに書かれていました....。クラスメートとして普通に話しかけられるだけなのですが、私には、刺激が強く話しかけられないよう目を合わせないようにしていました(苦笑)

高校に入ると、輪に入れなかった中学の友達との時間が自然と重なっていき、当時流行のプリクラを撮りにいったりカラオケにいったり放課後を楽しんでいました。同世代の行く場所はみんな同じで、よく同級生に遭遇し話す機会が増えました。そして苦手かもと思っていた彼らとの時間も自然と重なっていきました。

都内で生活したりしましたが、今は地元の川崎大師に住んでいます。お寺が有名な町ですが、その当時恐怖でしかなかった同級生達は的屋さんになっている人もいて、お祭りで境内に行くと必ず「ムッチャン(私のあだ名です)!!」と大きな声で挨拶してくれます。地元で困った事があれば頼れる仲間がいるのは幸せだなと心が温かくなります。先日私の結婚式で友人にスピーチを頼んだのですが、涙を流しながら祝福してくれた彼女と出会ったのも最悪と思っていた中3の学校で出会った友人なのでした。

その当時は中3時代は最悪な学校生活と思っていました。前の学校では辛い時もありましたが、今となれば最高の友人達と出会えた最高の出来事だったなと心から思えます。苦しい最中にアシュタバクラの言葉を思い出すのは難しいかもしれませんが、知っているのと知らないのでは、世界の色が違って見えてくるかもしれません。

「心配はいらない。全て最高の出来事です。」

目の前の世界が光り輝き出す、アシュタバクラの言葉をいつでも胸に、最高の宝物が差し出されている事に気づける自分で居たいものですね^^

睡魔の先の花園

約2000年前に成立されたとされるヨガの根本経典「バガバッド・ギーター」には、私たちの人生をより素晴らしいものにしてくれる古代賢者のさまざまな智恵が記されています。この「バガバット・ギーター」にこのような一説が記されています。
「純質的幸福とは、最初は毒のように苦く、後に甘露のように甘くなる」
純質とはヨガで理想的な状態のことを言います。言い換えれば「理想的な幸せは毒のような苦しみの後に訪れる」とギータ-では説いています。

例えば登山で考えた時、険しい山道を自分の足で苦労しながら登り、やっとの思いで辿り着いた山頂から見る景色と、ほんの数分でロープウェイで登った後に見る景色は、同じ場所から見る景色であるにもかかわらず、まったく違って見えるはずです。私たちの多くは出来ることならば苦しみは避けて通ってしまいたいと思いがちだと思います。全てにおいて、より早く、そして、より楽をして甘露を手に入れようとする現代社会・・・だとしたら私たちが今感じている幸せというのは「ギーター」が説いている理想的な幸せなのでしょうか?

私は休日を利用してよく車で家族と出かけます。先日迎えた結婚記念日は妻の希望もあり茨城県ひたちなか市にある、国営ひたち海浜公園へ有名なネモフィラの花を見に行くことにしました。高速に入り順調に道を進んでいくと首都高速を越えたあたりから渋滞が始まりました。はじめは渋滞中も家族で楽しく会話を弾ませにぎやかに過ごしていましたが、朝が早かったこともあり、気がつくと一歳半になる息子は気持ちよさそうに眠ってしまいました。息子も寝て久しぶりに夫婦だけの静かなドライブが楽しめるとハンドルを握っていると、やけに車中が静かになりました。ふと妻を見ると、息子と一緒に寝ているではありませんか!?昨晩も妻は夜遅くまで息子の面倒を見ながら仕事をしていて寝不足だったのでしょう。こんな時ぐらいはゆっくりと寝てもらおうと起こすのをやめました。それから、渋滞が始まってしばらくたつのですがなかなか前に進みません、すると次第に私まで眠気に襲われたのです!昨晩、明日は休みだからと調子に乗り深夜のアーサナプラクティスをやりすぎて、体中筋肉疲労を起こしていました。とてつもない大きな睡魔が、押し寄せる波のように私に襲いかかります。事故を起こしてはいけないと頬をつねったり、叩いたりしてなんとか睡魔と闘いながら車を運転し続けました。その後何度も押し寄せる睡魔と闘い続けていると、ようやく渋滞は解消され何とか無事に目的地に到着することが出来ました。

国営ひたち海浜公園はとても広く、東京ドーム40個分の敷地があります。公園内の移動は自転車をレンタルし、妻が楽しみにしていたネモフィラの花畑へ向かいました。しばらく自転車をこぐと目的の丘にたどり着きました。そこで私は一瞬目を疑いました。青く美しいネモフィラの花があたり一面覆いつくし、まるで絨毯のように咲き誇る景色が広がっているではありませんか。言葉を失うほどの美しさに息子も大喜びで妻は「本当にきれいね、遠いところまで来てよかった」と感動していました。きっと2人の目に映るネモフィラはとても綺麗ですばらしかったのでしょう。しかし!!これは内緒ですが、眠い目を擦りながら苦しんで苦しんで出会う事の出来た私の目に映るネモフィラの方が格段と美しかったはずですよね(笑)。辿り着くまでの間に毒のような苦しみを経験したからこそ純質的な幸福を手に入れることが出来たと満足しながら帰路に着きました。

このようにして私たちが普段受け取ることを拒否してしまいがちな苦しみが、私たちをより幸福へと導いてくれる可能性があります。日々の生活の中で私たちが感じる苦しみというのは、この後に待っているであろう人生のメインディッシュをより素晴らしいものに変えてくれる魔法のスパイスなのかもしれません。

今皆さんの前にはどのような現実が広がっているでしょうか?
もしも毒のような苦しみが差し出されているならば、拒むことなくありがたくその苦しみを受け取ってみて下さい。きっと苦しみを多く受け取ったほど、この後の人生が素晴らしい色へと変化していくはずです。これからは苦しみを避けることなく理想的な幸福を手に入れられますように。
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